20181128 緊急集会

安楽死・尊厳死の問題点と介助者確保について」 141

川口 じゃいいですか、始めましょう。はい。

 それではお時間になりましたので、緊急集会「安楽死・尊厳死の問題点と介助者確保について」ということで、始めさせていただきます。私は、今日司会を賜わりました川口有美子と申します。主催者の大濱さんと中西さんからご挨拶をお願いいたします。

 

中西 全国自立生活センター協議会、副代表をしております、中西です。われわれ、介助サービスについて全国制度化を目指してきて、ようやく全都道府県で24時間介助サービスを30年かけて実施することができました。今、問題になっているのは、高齢者の終末期の介助という問題だと思います。今日はその問題について議論しながら、学者の先生も入っていただいて、お話を伺いたいと思います。

 

大濱 おはようございます。全国脊髄損傷者連合会の代表の大濱です。当会の会員には軽度の人もいるのですが、私が代表になってからは、はっきりと「重度の障害者が地域で暮らせる」というキーワードを打ち出して、会で徹底しています。その視点から、重度の人たちが地域で安心して暮らせる、そういうシステムを作ることが大事だと考えていまして、それにはこの安楽死の問題が非常に関係しています。ですので、今日の先生方の議論をしっかり聞いていただければありがたいと思います。ありがとうございます。

川口 それでは、今日は国会議員の先生方がご挨拶にお見えになられてますので、順次ご紹介していきたいと思います。

 

川口 ありがとうございました。はい、大変難しい問題だと思います。終末期の医療の選択。その場において、本人の意思確認ができない場合、どうするかっていうこと。これはもうほんとに、こうあるべきだって解答がたぶん、どんなに考えても議論しても出てこない問題だとは思うんですけれども、より良い方法を模索していきたいと、今日の集会を持ったというわけでございます。

 では、そろそろ、講演の方に移らせていただきたいと思います。最初に安藤泰至先生、お願いしたいと思います。安藤先生は生命倫理、死生学、宗教学がご専門で、鳥取大学医学部で生命倫理などの講義をされている他、看護協会等で看護師の卒後教育にも携わっておられます。また、生命倫理学会をはじめとして、意思決定の場に関しても積極的にご発言されてきているということで、今日は「安楽死・尊厳死をめぐる言説のからくり 〜『人のいのちを守る』生命倫理へ〜」というタイトルで、ご講演をお願いいたします。

安藤 安藤でございます。みなさん、おはようございます。

 「緊急集会」と名付けられたようなところに来させていただくのは初めてなんですけれども、安楽死・尊厳死の問題について、私自身が「ちょっとやばいんじゃないか。緊急じゃないか」と思っている背景みたいなものを、最初にお話ししておきます。

 まず二人の医学者の言葉を紹介したいと思います。その一人はレオ・アレキサンダーという人です。彼は米国の医学者で、ナチスの医学犯罪を裁いたニュルンベルク裁判において、主席医学顧問としてそれに立ち会った人物です。アレキサンダーは、後にこういう言葉を残しています。そのまま読みます。

 「これらの犯罪が最終的にどれほどの規模のものと推測されるかにかかわらず、それらを調査した者すべてに明らかになったのは、その始まりが小さなものだったということ、…最初は、医師の基本的な態度におけるごくわずかな強調点の変更から始まったにすぎないということであった。それは、[ナチスの]安楽死運動の基本となった態度、すなわち世の中には生きるに値しない生命があるのだということを認めるところから始まった。安楽死運動の初期段階では、この態度は重篤な慢性疾患に苦しむ病人に関するものにすぎなかった。次第に『生きるに値しない生命』というこのカテゴリーに含まれる領域は広がり、社会的に非生産的な人々やイデオロギー的に好ましからざる人々、好ましからざる民族へと、そして最終的にはあらゆる非アーリア人」…まあ、ユダヤ人ですね、…を包含するものとなっていった。しかし、[安楽死運動という]この流行現象のすべてを支える精神がその糧を得ていたのは、そのなかに埋め込まれた無限に小さな梃子、すなわち回復不能な病人に対するこうした態度からだったということを認識することは重要である。」

 非常に重い言葉だと思います。次に、もう一人の医学者の言葉を紹介します。これはみなさんご存じの方も多いと思うんですけど、武見太郎、かつて25年にわたって日本医師会長を務め、「日本医師会のドン」と呼ばれた、大物医学者です。その彼がですね、1970年代のことだと思いますが、バイオエシシスト(生命倫理学者)の木村利人――現在早稲田大学名誉教授で、私も大変お世話になっている方ですが――その木村先生との対談の中で、こんなことを言っています。

 「木村さんね、バイオエシックスの思想を官僚にだけは渡さないでくれよ。官僚に渡したら、国民のいのちはコントロールされる。倫理の名によって国民のいのちはコントロールされる。倫理の名によってあたかも早く死ななくてはいけないような法律まで作られかねない時代になって行くから、気をつけなさいよ。」 ものすごく鋭いことを言ったと思うんです。この二つの言葉を噛み締めながら、これからのお話を聞いていただきたいなと思います。

 おそらく、私がここに呼ばれたのは、尊厳死法制化に対する反対論者ということで知られている、ということが大きいのかな、と思います。2014年に朝日新聞で、「尊厳死法は必要か?」という「耕論」の特集が組まれて、三人のインタビューが載りました。一人は、さっきお話が出ました「日本尊厳死協会」の副理事長の一人である医師の鈴木裕也先生。彼は賛成派ですね。それで、私がその逆の反対派。で、もう一人の映画監督の周防正行さんは、どちらかというと反対派に近い慎重派っていうスタンスだと思いますが、この三人が並んで登場しました。

 それともう一つ、これも同じ2014年なのですが、アリシア・ウーレットという人の『生命倫理学と障害学の対話』っていう本を、私と児玉真美さんという方の二人で翻訳をして出版しました(買って読んで下さった方もいらっしゃると思います)。児玉さんは4年前にこの院内集会で講演されたので、ご存じの方もいらっしゃると思うんですけれども。重症の心身障害の娘さんがおられる方です。ここに私をお呼びいただいたのは、この本もひとつのきっかけなんじゃないかなと思います。

 で、このウーレットの本によるとですね…、実は米国において、いわゆる生命倫理学というものと障害者運動というものが非常に仲が悪いと。で、生命倫理学の学会なんかに、たとえば障害者運動の方々が殴り込みをかけに行くみたいな、そういう話が出てくるんですね。この本では、そういう両者の和解の道というのはないのか、ということで、結局、障害者を排除するような生命倫理学ではなくて、“disability-conscious”(ディスアビリティ・コンシャス)な、障害を考慮したような新しい生命倫理学のあり方はないのか、っていうことをウーレットは探っているわけなんです。そこで、この両者の大きな対立点の一つとして、生命倫理学というのがどちらかというと「死の自己決定」ということに非常に肯定的であったと。それに対して、障害者運動は「死の自己決定」という考え方に非常に批判的であった、ということが挙げられているわけです。

  で、ちょっとこの「生命倫理学」というものについてあまりご存じない人に、少し説明をしておきたいと思うんですが、私自身は、自分のことを「生命倫理学者」というふうに紹介されることを非常に嫌っております。というのは、大学で生命倫理というものを教えているので、よくそういうふうに紹介されることがあるんですけれども。一般に、生命倫理とか、生命倫理学というと、日本語の語感として、「いのちを守る倫理学」というふうに誤解されていることがあるように思うんです。しかし、この言葉、すなわちバイオエシックス(bioethics)という語は、実際には"biomedical ethics"(バイオメディカル・エシックス)、すなわち「”biomedicine”(バイオメディシン、近代の生物医学のこと)をめぐる倫理」というような意味であって、別にその「いのちを守る」とか、「いのちを支える」とか、そういう意味がこの言葉の中に入っているわけではありません。で、普通、このバイオエシックス、生命倫理学っていうのは、1960年代から70年代にかけてアメリカで成立したものだと言われています。もし、いのちについての倫理とか倫理学という意味であれば、医療問題だけでなくてですね、例えば環境倫理なんかも、当然、いのちについての倫理の問題ですし、あるいは、スライドに挙げた死刑の問題だとか、銃器の問題だとか、戦争だとかっていうのも、当然「いのちを守る」上では大切な倫理問題なんだと思います。でも、こういったテーマは普通、生命倫理学の主たるテーマの中には入っていないんですね。なぜかって言うと、アメリカにとって都合が悪いからです。えー、まあそういうことなんですね()

 私自身は、何らかの表立った病気とか障害とかいうものを持っているわけではありません。ただ、私の妻は、もう11年ぐらいになりますけれども、多発性硬化症という難病を患っていまして、軽度ではありますが、日常生活には少し障害があります。で、私はこういう問題を考えていくときに、自分が50を過ぎてから、「こういうふうに考えていこう」という一つの方針を決めたんですね。自分自身が、将来、これからだんだん年をとって弱っていくのは明らかなわけですから、そういう自分自身ができるだけ楽になるように、できるだけ楽しく生きられるような考え方をしようと決めたのです。自分自身を追い込んだり、自分自身を窮屈にしたりするような考え方をするのはやめよう、ということです。そうすると、この安楽死、尊厳死の問題というのも、それを肯定する人たちの理屈を見ていくと、どうも私自身が、これから年をとっていくときに、「何かそんな考え方では窮屈だな」という、ものの見方なんですよね。これは私だけの問題ではなくて、妻と共に生きていくということを考えても、「何かずいぶん窮屈だな」と。もちろんこの問題っていうのは、ある人にとって、こっちの方が生きやすいという考え方が、別の人にとっては、すごく生きづらさにつながったり、場合によっては生命を脅かしたりすることもあるので、非常に複雑なんですけども。少なくとも私は、この問題に関わるときに、やっぱり自分自身が、できるだけ生きやすいように考えようっていうことで、やっています。

 この講演のタイトルに、「『人のいのちを守る』生命倫理へ」という副題をつけさせていただいたのですが、先ほど挙げたウーレットの本には、「障害者を排除しない生命倫理へ」という副題――これも私と児玉さんが考えてつけたものですが――がついています。しかし、「障害者」という、何か特別な人がいる、っていうふうには考えない方がいいように思います。誰がいつ、どういう障害を持つようになるか分からないわけですから。

 そうすると、「人のいのちを守る」とはどういうことなんだろうか。何かこう、限りなく延命をするっていうことなんだろうか。そうではないだろうと。私は、「人のいのち」ということについて、次のように考えています。「生きる」という動詞を名詞形にしたときに、英語だったらこれは、”live”(リブ)の名詞形は”life”(ライフ)一つしかないですね。ドイツ語でもフランス語でも同じです。ところが日本語の場合、少なくとも四つの言葉があります。「生命」という言葉、「生活」という言葉、「人生」という言葉、「いのち」という言葉、四つあるわけです。そしてこの四つの言葉は、厳密に区別されているわけじゃないけれども、日常的に使い分けられていると思います。例えば、「生命力」と「生活力」というのは違うものを思い浮かべると思いますし、「生命科学」と「生活科学」というのはそれぞれ違う学問を指します。それから、「生命の危機」と「生活の危機」と「人生の危機」と、この三つの言葉では、それぞれ違うものをイメージするのではないでしょうか。まあ三つの危機が全部同時に来ることもあると思いますけれども。たとえば大きな事故に遭って、まさに「命が危ない」っていう状態になると、「生命の危機」。そういうことにならなくても、たとえば会社をクビになって、収入がなくなったり、借金に喘ぐとかっていうことになると「生活の危機」ですね。そういうことが全然なくても、たとえば自分の、伴侶でも親でもいいですけど、家族の大事な人が亡くなって、「人生の危機」っていうのはあると思うんですね。それぞれやっぱり違ったものを思い浮かべる。また、「いのち」という言葉も、特にひらがなでこう書くと、死によって終わる「生命」とは違って、たとえば、死んだあとも「いのち」が何らかの形で続いていったり、受け継がれていったりする、いうことを言う人もいます。

 「いのちを守る」というのは、こういうすべての次元で、「人が人として生きていく」ことを支える、守るということであって、単にいわゆる生物学的な生命を延長するということとは違うと思います。そう考えるならば、こういう意味での「いのちを守る」ということのなかに、本来、医療とか福祉とかいった対人援助活動の目的というのがあるべきだと思うんです。

 ところが、私がこういうこと言うと、特に医師には評判が悪いです(笑)。「医師の仕事は病気を治すことだ」と信じて疑わない医師が多いんです。「じゃあ、治らない病気はどうなるんですか?」って私はいつも言うんですけど、彼らは「それはまた別の話だ」「(医学や医療の)本筋じゃない」って言うのです。だけど、私はこの医療というものの本来の目的は、やはり、人をどうやって助けるか、人が人として生きるのをどうやって助けるか、ということにあると思います。「病気を治す」ということはその一部に過ぎないわけです。たとえ治らない病気であっても、もうすぐ死にそうな人であっても、医療はやはり医学的な知識とかを活用して、その人をある程度助けることはできるわけですから。

 ところがですね、あの有名なキューブラー=ロスの弟子にデヴィッド・ケスラーという人がいて、彼が『死にゆく人の17の権利』っていう本を書いたんです。これはとてもいい本なんですが、日本ではこの「死」というものと「権利」というものがなかなか結びつかないのか、本の題名で損して、あんまり売れなかったようです。この本のはじめのところにケスラーが書いてるんですけども、お師匠さんのキューブラー=ロスのとこに行って、「今こんな本を書いているんですが、何か助言はありませんか?」と尋ねたところ、「じゃ、一つだけ」ということで、「生きてる人間に対する正しい接し方というのさえ覚えておけば、別に、死んでゆく人の権利なんか覚える必要はない」とキューブラー=ロスは言ったそうです。

 それで、この本の「17の権利」のなかの最初である「第一の権利」として、「生きている人として扱われる権利」が挙げられています。そんなことは当たり前のことだと思われるでしょうが、どうしても治らなくて、何をやっても効果がなくて、もうだんだん悪くなって死んでいく人、っていうのは「生きている人として扱われてこなかった」、っていう現実があるわけですね。

実は医学、医療というものの中にですね、人のことを人としてきちんと見ることを妨げるような言葉がいっぱいあるんです。私は、病院なんかに講演に行ったりすると、必ずこの話をします。そうすると、「なるほど、そんなことは今まで考えたこともなかった。目から鱗でした」と、非常に感激してくださる方もいるんですが、「何を言うか!」って食ってかかってくるような人も少数いたりします。

 たとえば、まず「患者」という言葉を挙げます。医療者は当たり前のように使ってる言葉なんですけれども、何々という病気、たとえば「肺がんの患者」であるということは、その人の全体にとって一部に過ぎないですよね。ほんの一部ですよね。その人は、会社の社長であったり、誰々の父親であったり、誰々の釣り仲間であったりというように、いろんな人たちにとってかけがえのない人であり、さまざまな活動をしている。「患者である」というのは、そういうその人の一部に過ぎない。ところがどうも、特に病院に勤めてる医療者というのには、そういう当たり前のことが見えない、見えにくいっていう側面があります。

 それから「徘徊」っていう言葉ですね。たとえば認知症がかなり進んでくると、あちこちをウロウロ、歩き回る。これは病院や施設なんかでも大変困ったことで、誰も知らない間にどっか外に出て行っちゃって、車にでも轢かれたら大変なことになりますから。でも、「徘徊」という語を辞書をひくとですね、「意味なく動き回ること」と出ています。意味ないんでしょうか? あるに決まってるんです。人間は絶対に、意味なく歩き回ったりしません。その当人にとっては、絶対、何か意味を持って歩いてるんです。ただそれを見ている周りの人が、どういう意味を持って歩いてるのか、分からないだけの話です。

 すごく面白い話があるんですね。沖縄だったと思いますけど、ある病院でですね、廊下を「徘徊」していた認知症の患者さんを、誰かスタッフが呼び止めて、「○○さん、早く部屋に入ってくださいよ」って言ったと。そこにたまたま院長先生が、廊下を通りかかったそうです。で、その院長先生に対してまた別のスタッフが、「先生、お客さんが見えてますから、早く院長室に戻ってください」って呼び止めた。で、その患者さんが院長先生に対して、「ああ、院長先生も「徘徊」されてるんですね。」って言ったそうです。つまり、院長が何のために廊下を歩いてるのか、その患者さんには分からないわけです。自分と同じように院長先生も、スタッフから「戻ってください、戻ってください」って言われている。ああ、院長先生も「徘徊」しているのか(笑)と納得したわけでしょう。この病院では、このことがあってから、「徘徊」という言葉を使わなくなった、と聞きました。このことからわかるのは、「徘徊」という言葉を使うことで、認知症の患者は、医療スタッフから人間扱いされてないということ。つまり医療者の側は、「自分が(その患者がなぜ歩き回っているのか)わかってないだけだ」ってことに気づいてないわけですね。わかろうとしていない。そういうことです。

 それから、これは、学生なんかによく言うんですけど、「意識がない」という言葉。「この患者さんは意識がありません」という言い方、これは問題があると思います。なぜなら、「意識がある」ということは確認できますが、「意識がない」ということは確認できないからです。たとえば、呼びかけたら応じるとか、「痛いですか」と聞いたら「痛い、痛い」と。これで「意識がある」ってことが分かります。ところが「意識がない」ということは分からないんですよ。あるのかないのか分からないから、「意識不明」っていうのが本来の言い方だと思います。つまり、少なくとも私の認識では、「意識とは何か」ということについては、現代の脳科学ではまだ完全には解明されてないと思います。「意識があるのかないのか分からない」状態の人について、「意識がない」というふうに言っちゃうと、じゃあ周りで何か喋ってても、その人には全然聞こえてないかって、そんなことは絶対ないはずなんです。たとえば、いわゆる「脳死」という状態だと誤診されて、あとで回復したような人でも、その時のことは全部聞こえていた、って言っています。最近の研究によると、植物状態の人なんかも、やっぱりその周りで話されてることは聞こえているし、あるいは知ってる人の写真なんかを見せると、ちゃんと脳では認識してるんだ、っていうことが、言われるようになってきています。だから「その人は意識がない」というふうに言ってるのは、もう「その人は人間じゃない」っていうふうに言ってるのとおんなじことなんですよね。これ、気をつけないといけないです。

 それから、今日はちょっと脳死臓器移植の話はしませんけど、ここに並べて書いた五つの言葉、「超昏睡」(あるいは「不可逆的昏睡」)、「脳死患者」、「脳死の人」、「脳死者」、「脳死体」。これらは全部、同じものを指している言葉なんですね。今、「脳死」と呼ばれるような状態の人、すなわち脳幹という部分が完全に機能停止して、それに伴って全脳の機能が停止したような状態については、当初、1950年代から60年代にかけては、「超昏睡」とか「不可逆的昏睡」というふうに呼ばれていたわけです。ところが、この五つの言葉をこうやって左から右に並べてみるとですね、左に行けば行くほど、われわれと同じような、何か「生きてる人」っていう感じが強まってくるし、逆に右に行けば行くほど、何かもう「死んだ人」、「死体」という感じが強まってくるんではないでしょうか。実際、「脳死体」という言葉は、臓器移植法でも使われてる言葉ですよね。で、たとえばですね、もし、「超昏睡患者に麻酔をかけて、お腹を切り裂いて、心臓を取り出して別の患者に移植することは倫理的に許されるか?」っていう問いを立てたとしたら、ほとんどの人は「ノー」と言うと思います。「イエス」と言う人もいるかもしれませんけど、ほとんどの人は「ノー」と言うでしょう。だから、言葉っていうのは非常に恐ろしいものだ、ということを、私はいつも言っています。

 

 ここから本題である「安楽死」と「尊厳死」の話に入っていきます。

 まずは非常に基本的なこととして、二つのことを押さえておく必要があります。一つは、「安楽死」や「尊厳死」といった言葉について、何か世界共通の定義とかですね、これが正しい定義などというのはない、ということです。それぞれの人が、これらの言葉を、それぞれ違った意味で使っていますし、国によっても違います。だから、本などを読んでてですね、「安楽死とはこういうことだ」「尊厳死とはこういうことだ」って断言してあるものがあったら、絶対その著者は信用してはいけないということですね。

 それからもう一つ、「安楽死」と「安楽な死」は違う、「尊厳死」と「尊厳ある死」は違う、ということです。これ、大切な点です。「安楽死」とか「尊厳死」といった言葉は、単に死というものを何か形容してる言葉ではないということです。たとえばですね、私の良く知っている方のお父さまが、何年か前に、もう90近かったと思いますけど。友だちと麻雀の卓を囲んでいて、「ポン!」って言った瞬間に、後ろにひっくり返って意識がなくなって、そのまま亡くなられました。これ、全然苦痛はなかったと思います。非常に安らかな死に方だったと思いますけど。これを「安楽死」とは言いませんね。つまり、「安楽な死」が別に「安楽死」じゃないわけです。それから、「尊厳」っていうのも何かわけわかんないけれども、少なくともどんな人の死であっても、人には尊厳があるんだから、「どんな死にも尊厳がある」って言い方はできると思うんですよね。ある特定の死が尊厳死なんじゃなくて、どんな死でも尊厳がある。ある意味ではそういう言い方もできるわけです。

 私の講演のタイトルにあるように、「安楽死」や「尊厳死」については、実はいろんな言葉のからくりがあります。安楽死」という言葉の原語は、英語で”euthanasia”(ユーサネイシア)という言葉ですけど、これはもともとは古代ギリシャ語で、「ユー」は「よい」、「サナシア」は「サナトス=死」という言葉から来ています。もともとは、今の日本の言葉でいうと、たぶん「大往生」みたいなね、何かあんまり苦しまないで、安らかに死んでいく、みたいなことを指した言葉なんでしょうが、それが、1870年代ぐらいからだと思うんですけど、逆に「苦しんで、苦しんで、なかなか死ねない」というような状況のもとで、その人を安らかに死なせるような、そういう「行為」を指して使われるようになってきました。

 私はこれで絶対に正しいっていう自信はないんですけど、今、この「安楽死」という言葉で語られてるいろんな行為をある程度広く包含するような意味ということを考えると、ここに赤で書いたようなことになるんじゃないかな、と思うんです。「ある人を死に至らせる意図的な行為によって、その人を耐え難い苦痛や意味のない生から解放すること」という、こういう意味になると思います。ここでちょっと大事な点は、「死に至らせる」は、「意図」にはかからないということです。「死に至らせる」は「行為」にかかります。「その人の意図がどうであるか」ということを問題にすると、実は安楽死、尊厳死の問題っていうのはうまく論じられないのです。なぜかっていうと、殺すことは悪いことだと思って、人を殺す人は当然います。ところが、極端な話をすると、相模原事件の犯人が19人の障害者を殺したわけですね。他の入所者やスタッフの方にも重軽傷を負わせている。あの犯人はですね、いいことをしてるつもりなんです。自分はもうこれで英雄になる、と思ってたわけです。狂ってるといえば、狂ってるかもしれませんけど、今でもそれを全然後悔していない。意図としては、あれはもう「人を救うために、国を救うためにやってる」っていうふうに思ってるわけです。だから意図だけでもって、ある行為を倫理的に肯定するか、否定するかっていうことは、やってはいけない。安楽死について考える時には、その目的や意図ではなくて、「実際にどういう行為をするのか」っていう点に従って分類をしなければいけない、ということです。

 そうすると、大きく分けると、さっき言った「広い意味の安楽死」というのは、次の三つに分けるのが普通です。一つが「積極的安楽死」と呼ばれるもので、医師が致死薬を患者に直接注射して死なせる。薬としては、筋肉弛緩剤のようなものが使われるのが普通です。これが合法化されてる国というのは、オランダが世界最初で、その後にベルギーとルクセンブルク。また、2年前に成立したカナダの医療的臨死介助法というのも、はっきりと安楽死とは言ってないんですけど、事実上積極的安楽死も合法化されていると見なしていいと思います。それからコロンビアでも、これは合法です。

 次に、最近非常に増えてきているのが二番目のタイプですね。physician-assisted suicide"頭文字をとってPASと言われることが多いですが、私は「医師幇助自殺」と訳しています。この場合、医師は致死薬を処方します。睡眠薬の非常にきついもの、と思ってください。で、患者はそれを受け取って、自分が「もう死にたい」と思った時にそれを飲んで自殺をする。もちろん飲まなくてもいいです。飲まない人も結構います。これが最初に合法化されたのは、1997年、アメリカのオレゴン州ですが、いろんなデータを見ると、20パーセントから30パーセントぐらいの人は飲まないみたいですね。薬は持っていても飲まない・・・・あるいは「飲めない」人もいます。病気が進んで、もう飲み込む力がなくなって飲めないっていう人もいるし、タイミングを逸するという場合もありますが、意図的に「飲まない」人もいます。「飲む飲まないは患者の自由」ということです。

 それに対して、今、日本で、「尊厳死」というような言葉で問題視されているのは、こういうものとは違って、「延命治療の手控えや中止」のことです。たとえば呼吸が非常に困難になってきたときに、気管切開して人工呼吸器をつけるか、つけないかという選択。呼吸器を「つけない」というのは、やろうと思えばできる延命のための治療を「手控える」ことですね。それに対して、いったんつけているものを途中でやめる、人工呼吸器のスイッチを切るということになると、これは「中止」ということになります。「延命治療」ということでは、基本的には人工呼吸器とか人工栄養のようなものとか、あとは人工透析ですね、そういうものが対象になっていると思います。こうした行為は日本では「尊厳死」と呼ばれることが多いのですが、ちょっとこれには注意が必要です。

 それと、紛らわしいものとして、「間接的安楽死」っていう言葉があります。昔、どういうものを指してこの言葉を使ったかというと、たとえばガンの末期なんかで非常に苦痛が激しいというときにモルヒネなどの医療用の麻薬を使って、その痛みを取るという行為について、「間接的安楽死」の語が使われていました。昔はモルヒネの使い方なんていうのも、今のようにきちっとしたガイドラインもなかった時代なので、やっぱり使いすぎてしまって、患者を中毒に陥らせてしまい、それによって死期が早まったということがあったわけです。だから、直接に死なせるわけじゃないんだけど、その人の苦痛を取り除いて楽にするために、死期が早まるということを指して、この言葉が使われていたわけです。ただ、現在ではですね、そういう医療用の麻薬については、正しい使い方をすれば、死期が早まるということはあまりなくて、患者さんが痛みが取れると生きる意欲が出てきて、むしろ命が延びることもあるということが認識されるようになってきたので、この「間接的安楽死」という言葉は、そういう行為を指しては使われなくなりました。

 ただ、一方で、さっき言ったPAS(医師幇助自殺)ですね。医師は致死薬を処方するけれど、最終的には患者さんがそれを飲んで亡くなるので、医師が直接、注射して死なせるわけではない、ということで、PASを指して、「間接的安楽死」という語を使う人もいます。ただこういう用語法も、私は最近、文献の中ではあまり見ません。

 むしろ、「死なせることを意図しないんだけど、間接的に死期を早める」という意味で言うと、現在行われてるものでは、終末期の鎮静が最もよく当てはまります。大体もうあと1週間ぐらいしか残された命はないということがわかって、モルヒネなんかではどうしても苦痛が取れない、という場合に用いられる方法です。鎮静(セデーション)というのは、麻酔に近いものです、要するにその人の意識状態をガーッと下げてしまうんです。つまり、眠らせてしまう。鎮静には浅いものと深いものがあって、浅い鎮静だと、また覚めることもあるわけですが、終末期の最終的な鎮静(持続的で深い鎮静)はそうじゃなくて、深く鎮静をかけて、ずーっとそれを続ける、つまり患者を死ぬまでずーっと眠らせてしまうわけです。だから鎮静をかけてしまうとですね、もう、目が覚めて家族と話をしたりとか、そういうことはできない。また、鎮静に使われる薬には呼吸を抑制する作用もありますので、鎮静によって死期が早まることもあります。こうした持続的で深い鎮静については、「間接的安楽死」とは呼ばれておらず、通常の緩和ケアにおける「苦痛緩和」の一環として、普通の医療の中で行われています。しかし、「苦痛の緩和」っていうと、その人のQOL(生活の質)を上げるためにするわけですよね。ところが、終末期の鎮静の場合、もうその人は起きないとか、コミュニケーションが一切取れないということを考えると、「苦痛の緩和」というよりは、やっぱり「苦痛からの解放」っていう意味合いも強いわけで、そういうところからすると、普通の緩和ケアよりは安楽死に近いと言うこともできます。ちょっとまあ、グレーゾーンの行為です。このように、「間接的安楽死」という語は何を指しているかがまちまちで、ちょっと紛らわしいですし、私は使わない方がいいと思う言葉です。

 

 次に「尊厳死」です。さっき言いましたけど、日本ではこの「尊厳死」という言葉が「延命治療の手控えや中止」を指して使われることが多いです。そして、「尊厳死」と「安楽死」とは違う(この場合の「安楽死」というのは先ほど言った「積極的安楽死」、医師が注射をして死なせるようなものを指します)というふうに言われることが多いのですが、こういう区別は一市民団体としての日本尊厳死協会の用語法だということに注意が必要です。さっき木村先生がおっしゃった、太田典礼っていう人は、日本尊厳死協会の前身になった「日本安楽死協会」を1976年に設立しました。これはいわゆる「積極的安楽死を合法化しよう」という団体でした。それがいろんな反対論もあってですね、ちょっとこう、トーンダウンして、1983年に「安楽死協会」が「尊厳死協会」に変わったんです。その時に、まあとりあえず今は、主張を「延命治療の手控えや中止だけにとどめておこう」ということで、それを「尊厳死」と呼んで、今まで主張していたような、医師が薬を注射して死なせるようなものは「安楽死」と呼ぶ。つまり「安楽死と尊厳死というのは違いますよ」っていう、そういう宣伝文句をもとに新しい団体に改名したわけです。そのために、日本では、何かそういう歴史的な事情も知らない人によって、「安楽死というのは積極的安楽死を指す、尊厳死というのは延命治療の手控えや中止を指す」といった誤解が広まっている。これは、あくまで単なる一市民団体の用語法にすぎないのです。

 さきほどPAS(医師幇助自殺)を最初に合法化したのがアメリカのオレゴン州だという話をしましたが、このオレゴン州の法律は、「オレゴン州尊厳死法」という名前です。つまり、ここでは「尊厳死」という言葉は、イコールではないかもしれませんけど、このPASを指して使われているわけですね。今、欧米でこの「尊厳死」”Death with Dignity”という言葉が使われる場合には、やっぱりPASを指すことが非常に多いし、場合によっては積極的安楽死も含んで使われる場合もあります。だから、この「尊厳死」という言葉自体が、何らかの特定の行為を指す言葉ではなくて、むしろ、あるイメージ、「尊厳を持って死にゆく」というイメージを指す言葉なんだということを、しっかり認識していただきたいと思います。

 今回、資料の最後の方にちょっと文献表をつけておきましたが、『SYNODOS(シノドス)』というインターネット学術雑誌に2015年に私が書いた論考(「「尊厳死」議論の手前で問われるべきこと」)の中で、詳しく話をしたんですけれども、「○○死」っていう言葉、たくさんありますよね。今問題にしている「安楽死」や「尊厳死」、あるいは、石飛先生とか長尾先生なんかが言う「平穏死」。こういう言葉とですね、それ以外の「○○死」ですね。たとえば「病死」「事故死」「自死」「がん死」「焼死」「水死」とか、そういう言葉とはちょっと違うんです。語の成り立ちとして違うのです。その違いはどういうところにあるかを、これから説明します。

 スライドにあるAグループの言葉、「安楽死」とか「尊厳死」とかっていう言葉は、それ以外の言葉(Bグループの言葉)に比べて、それが何を指しているのかが非常に曖昧だということ。これはみなさん、読んで分かると思います。

 それだけじゃなくて、実はその「安楽死」とか「尊厳死」といったものは、さっき少しお話ししたように、単に「どのような死であるか」ということを形容してるんじゃなくて、そういう死を実現するための具体的な行為を伴うわけです。たとえば医師が致死薬を注射するとか、それを処方して患者がそれを飲むとか、あるいは延命治療をやめるとか、そういう具体的な決定とか行為を伴います。だから、それに賛成だとか反対だとかいう対象になるわけですよね。Bグループの言葉について、たとえば、「病死には反対だ」とか、「水死には反対だ」とか、そういうことは有り得ないですね。

 それと、もう一つ重要なのは、こういう「安楽死」とか「尊厳死」という言葉には、何か「よい死」、「それがよい死に方なんだ」っていうある種の含みがあって、それは、それと逆の「悪い死」のイメージと常にセットになっているんです。たとえば安楽死の場合だと、「安楽」の逆はやっぱり苦痛に喘ぐ、そういう耐え難い苦痛がある、ってことですね。そういう「耐え難い苦痛に喘ぎながら死んでいく」っていうことが、ここでは「悪い死」として前提に置かれているわけです。それから、「尊厳」っていうのは何なのかは難しいんですが、そういう尊厳が失われているように見える、「人間として、こんな死に方はいかがなものかな」と感じてしまうような死に方っていうのが「悪い死」に当たります。そういう「悪い」死に方を避けるために、「じゃ、これこれ、こういうことをすると安楽に死ねますよ。こういうことをすると尊厳を持って死ねますよ」という形で、「死をもたらす」あるいは「死につながる」ような行為とセットになってるわけです。つまり、「悪い死」のイメージとセットになった、ある種の「よい死」を実現するための行為が、このAグループの「○○死」の特徴です。

 じゃあ、ここにもう一つ別の言葉を重ね合わせてみましょう。「孤独死」という言葉です。何かちょっと嫌な言葉だと、私は思っていて、あまり拡大解釈するのは危険だなと思うんですけど、「孤独死」が何を指してるのかっていうことについては、安楽死や尊厳死に比べれば、比較的はっきりしていますね。「家で一人で死んで、誰にも見つからない」とか、「何日も経ってから見つかってしまう」という事態を指してるんだと思います。また、この言葉も、特定の死に方を形容するだけで、別に「孤独死」をさせるような行為というものを何も伴っていない点でも、さっきのBグループの言葉に似ているわけですね。ところが、この「孤独死」という言葉は、単に死を形容しているだけではなくて、そこに「悪い死に方」だとか、「できればそういう死に方を避けたい」という、マイナスの価値判断が、そこに入っている。もちろん、たとえば上野千鶴子さんみたいに、「人は一人でいる時間が一番長いのに、孤独死のどこが悪いんだ?」というようなことを言う人もいるけれども、やっぱりこの言葉から受けるイメージってのは、ほとんどの人が何か、「できればそんな死に方はしたくない」という「悪い死」のイメージなんだと思います。

 もっとも、私は「孤独死」が必ずしも「悪い死」だとは思いませんけど、もしそうだとした場合、「孤独死」という「悪い死」の原因とかですね、「孤独死」を避けるための手段とか方策というのは、普通どういうところに求められるのでしょうか。これはもちろん一つではないと思うんですね。

 ただ、基本的には「孤独死」というのは、その人をそういうふうにさせてしまうような社会のあり方や人間関係のあり方というのがあって、そういう死に方になってしまう。だから人を「孤独死」させないような、そういう「悪い死に方」をさせないような、ケアとかサポートといったものを充実させていくという方向に、解決策が求められていく、っていうのが普通のパターンだと思うんです。

 ところが逆にですね、「激しい苦痛に喘いだ末の死」とか、「人間としての尊厳を失ったように見えるような死」っていうものについては、何かもう病気がどんどんどんどん悪くなっていって、もう治しようがないとか、あるいは老化が進んで、もう回復しないとかいうように、もはや変えることのできないものがすごく強調されて、そうした「悪い死に方」の原因のなかには、必要なケアなりサポートなりが不足していたり、不備があったりするということが見えにくくなっちゃうんですね。つまり、人の死に方っていうのは、社会のシステムだとか、人間関係のあり方だとか、医療のあり方だとか、いろんなものに影響されるにも関わらず、何かこう、「そういう(悪い)死に方をしないためには、前もって、自分で『こういうふうになったら死にたい』ということを決めておくのが、一番の解決策ですよ」みたいなことを吹聴されている。これが安楽死や尊厳死のレトリックなんです。

 私は、新聞記事のインタビューにもあるように、これは「タチの悪い宗教」みたいなもんだと思っています。私はもともと宗教学が専門なのですが、タチの悪い宗教ってのはだいたい、一方で人の不安を煽ります。足裏診断で、たとえば「あなたは、今は元気かもしれないが、5年後に必ずがんになります」とか。そうやって人の不安を煽っておいて、もう一方の手で、「大丈夫、これをしておけば安心です。はい、130万円のこの壺を買いましょう」とくる(笑)。霊感商法です。「安楽死」「尊厳死」というのは、ちょっとこれに近いところがあって、「こんな死に方をしたくなかったら、あらかじめ自分でこうやって決めておくのが一番いいんですよ」というふうに、一方で人の不安を煽りつつ、もう一方で「特定の解決策」に誘導していくんです。「ちょっとそれは問題なんじゃないか?」と私は思います。

 こういうときに、「自己決定だからいいんだ。」「自分で決めるんだったらいいんじゃないか。」っていうふうに言う人が必ずいます。要するに、たとえばナチスみたいに、国がですね、「こういう人は生きる価値がないから死なせた方がよい」みたいな判断をして人を死なせる、そういうのはいけない、と。あるいは、医師が勝手に決めるとか、家族が勝手に決めるのはいけないけれども、「自分で決めるならいいんじゃないですか」って言う人がいるんだけれども、それはちょっとおかしい。

 私は生命倫理の講義の中では、こういうたとえ話をします。その場所に行ったら、そこで食べるしかないようなレストランがあったとします。たとえば、テーマパークとかね、まあそこには1軒だけしかレストランがないと。そのレストランのお昼のメニューは、Aランチが3,000円、Bランチが5,000円、Cランチが1万円、カレーライスが500円だと。まあこんなこと、実際にはありませんけどね(笑)。そうすると、ほとんどの人は、家族連れでここに来て、みんながカレーを注文します。ところがこれ、「この店のカレーがすごく美味しいから、みんなカレーを注文してる」とか、あるいは「日本人はみんなカレーが大好きだから、カレーを注文してる」とか、そんなことはないよね。他のものを注文したら、あまりにも経済的負担が大きすぎて払えないから、しょうがないからカレーを選んでるわけですよね。だから何にも強制はしてないんだけど、カレーを選ぶしかないような状況が作られている。つまり、このように、別の選択をした場合には本人とか家族が大きな負担を背負わされるような状況のもとで、ある選択をすることについて、「それは自己決定だから問題ない」っていうのは、非常におかしな話なんです。

 これとおんなじ問題が、たとえば、出生前診断なんかでもあると言えます。たとえば、生まれてからこういう病気、こういう障害をもって生まれてきますよ、っていう子どもを、産まないという選択をする。それは「本当に産みたくないのか?」っていうと、必ずしもそうではなくて、実際にそういう子どもが産まれてきたときに、まあ、やっぱり自分たちがすごく大きな負担を負わざるを得ない。世間の目も非常に厳しい。そういう社会の中で、そういう決定をさせられてるわけです。それを、本当に「自己決定」というふうに言えるのかと。これは、やっぱり疑問だと思います。

 

話を戻しますが、安楽死・尊厳死についての賛成派、あるいは積極的に賛成するわけではないけど「まあ、いいじゃないか」って言う人(生命倫理学者にもそういう人が結構多いんですが)を含めて、そういう賛成派・肯定派によく見られるのは、こういう理屈なんですね。つまり、「そういう状況になったら死にたい、という人の自由を尊重すべきだ」と。それで、「その人たちの自由を尊重することで、同じ状況で『俺は死にたくないよ』『生きていたいよ』と思う人の自由が侵されることはないんだ。だから『選択の自由』なんだ。」っていうふうなことを言います。私はこれは、嘘だと思うんです。というのは、もしですね、どんな状況であっても人が自分の命を絶つ権利があるっていうような「自殺権」みたいなものを認めない限りは、特定の状況のもとで死にたいっていう人の権利を認めるっていうことは、「そういう状況になったら死にたくなって当然ですよね。私だってそう思いますよ。」という、ある種の価値判断を含んでいるからです。

今、この場には車いすに乗っている方もいっぱいいらっしゃるんですけど、たとえば、もしこういう人がいた場合、つまり、「自分の足で歩けなくなったら、私はもう自分は人間としての尊厳がないと思いますから、私は死にたいです。」という人がいた場合、そういう人についても「尊厳死」を認めるのか、といったら、絶対認められないと思いますね。ところが、ある人だったら認める。ある人だったら認めないのに、別の人だったら認めるってのはどういうことかというと、そこに何か、ある共通の価値判断が入ってるわけです。「自分だったら、あるいは、そういう人だったら死にたくなって当然だ」っていうような、価値判断がそこに入ってるから、そういうふうに思うわけですね。そうすると、それは、同じ状況で「やっぱり生きたい」と思う人に対して、ある種の圧力になります。結局これは、人間観というところに行き着く問題だと私は思っています。

 次に、「死の自己決定」ということについて、ちょっと三つの例を挙げて整理をしてみたいと思います。この「死の自己決定」というのは、「死」という言葉自体に、いろんな意味や次元があるので、非常に複雑なんですね。つまり、死というのは、一面においては、「点」なんです。この「点としての死」は「死亡」。ということ。「死亡時刻」っていう言葉があるように、あるいは、「死亡診断」っていう言葉があるように、医師が「ご臨終です。」と言った時がその「点」です。ところが、同じ「死」という言葉が、点ではなくてある程度時間の幅をもったプロセス、場合によっては、何年もの期間を指すこともあります。「もうこの病気は治らないとわかって、死を意識して生きる」というような場合、「その人の死」という言葉で死亡の瞬間ではなく、死を覚悟してから実際に死ぬまでのすべてを指すこともあるわけです。さらに、その人が死んだ後も、「死」というのは続いていく、と言える面もあるわけで、その家族は、その人の死について、非常に納得いかなかったり、後悔があったり、いろんな形でその人の死を反芻していきます。

 だから、その「死」という言葉自体が非常に曖昧なんですが、一応私は、「死の自己決定」ということについて、三つに分けて考えています。

 一つは、自分の死が近くなったときの「終末期医療の選択」という仕方で、「死の自己決定」という言葉が使われる場合です。「患者の自己決定権」というのは一般的に認められてるわけですから、その範囲内で正当化できるものだと思います。注意していただきたいのは、これは基本的に、「死に至るまでをどういうふうに生きるか」という選択だということです。たとえば、もう残された時間はそんなにないけれど、その残りの時間で、たとえば自分が今書いている自叙伝みたいなものを完成させてしまいたい。そうすると非常に痛みが激しいのは困るけれども、かと言って、モルヒネをあまり多く使って、うつらうつら寝てるような時間が増えてしまうと、そういう作業ができないんで、そこはちょっとやめたいとか。つまり、激しい痛みは御免被るけど、完全に痛みが取れなくても、少しぐらいの鈍痛なら我慢できるので、できるだけ意識がはっきりしてる時間が欲しいとかね。こういうことであれば、その人は、「死というものに至るまでの時間を、どういうふうに生きるか」っていう選択をしているわけです。私は、こういう場合については、「死の自己決定権」という言葉をわざわざ使うべきではない、と思っています。

 「死の自己決定」が語られるもう一つの状況としては、――これがこの集会ではメインの話になると思うんですけど――「延命治療」というものをめぐる選択が挙げられます。これは、私は、法律でもって決めるということ(いわゆる「尊厳死法制化」)には反対だけれども、場合によっては正当化できるものだと思っています。たとえば、ALSの患者さんがですね、呼吸がだんだん難しくなってきたときに、人工呼吸器をつけるか、つけないかという選択。もちろんつけなければ、そこで死というものが帰結するわけなんですけれども、その場合に大事なことは、こういう選択について、それが何か「その人の死生観や価値観」のようなもの(だけ)に基づいて行われる、という考え方はおかしいということです。よく、こういう言い方をする人がいます、「呼吸器をつけるかつけないかは、あなたの死生観や価値観次第です。どちらを選ぶかについて、強制はないです。自由に決めてください。」と。でも、もしですね、この人が「人工呼吸器はつけない」というふうに決めた…、はっきり決めたとしてもですね、それが、イコール「本人の価値観や死生観によってそういう選択をした」というふうには限らないわけです。それは、たとえば、人工呼吸器をつけて、どういう生活が自分に可能なのかっていう情報が、その人にはまったくなかったのかもしれません。あるいは、何か非常にこう、家族の迷惑というところだけを考えて、そこで決定したのかもしれません。怖いのは、「人工呼吸器をつけない(で死ぬ)」という決定をしてしまった場合、それが、必要な情報をすべて得た上での選択なのか、そうでないのか、ある一点だけを考えてなされた選択なのか、さまざまな面を検討した上でなされた選択なのか、区別できないんですよね。もちろん、すべての情報を得て、人工呼吸器をつけてもこれだけいきいきと生きることができるということを知った上であっても、「自分はつけません」って言う人はいると思います。ただ、そういう人とですね、そういう情報を得ずに決定してしまった人の区別はつきません。だから、こういう意思決定について、「これとこれとこれを満たして、こういう手続きを踏んでいったら、延命治療の拒否はできますよ」っていうような法律でもって規定していくということに関しては、私は非常に反対です。延命治療の手控えや中止については、それを自己決定として正当化できないわけではないけれども、それを正当化できるためにはいろんな条件が必要だろう、ということです。これは次に竹田先生がお話をされるACPの問題と絡んでくると思います。

 それから「死の自己決定」ということで語られる三つ目のものとして、積極的安楽死とか幇助自殺については、これはもう「死ぬことを選ぶ権利」みたいなことだと思うんですよね。こういう意味での「死の自己決定」というものを、私は正当化できないですし、合法化したりすべきではないと思います。

 ちょっと補足ですけれども、「尊厳死」という言葉とは逆に、「延命治療」という言葉には、非常に「悪いもの」というイメージがあると思います。しかし、「延命」とは、字義通りには「命を延ばす。生きている時間を延ばす」というだけですよね。そんなこと言ったら、医学的な治療のほとんどはみな「延命治療」だとも言えます。問題は、命を延ばすことそのものじゃなくて、QOLが非常に低い状態でただ(生物学的な)命だけを延ばす、ということにあるのでしょう。しかし、「命を延ばす」ということと、「その人がその延ばされた命を使ってどういう生を送るか」ということとは、本来、別の問題なのです。それなのに、別の問題があたかも同じ一つの問題であるかのように、つまり、何か延命とQOLが対立するかのように、言葉を操作している人たちが現実にいるんです。

 それからこのQOLって言葉にも、ちょっと注意してほしいんです。この概念は、諸刃の剣みたいなところがあります。つまり、スライドで1)と書いたほうのこと、つまりその人の今後のQOLをできるだけ高めるために、医療やケアで介入していくこと、これはその人のQOLだけを問題にしています。ところが、2)のように、別の人のQOLを比較して、どっちの人の方がQOLが高いとか低いとかっていうのは、これはもう優生思想というところに一歩入りこんでるんですね。つまりQOLの高い人は生きる価値がそれだけ高くて、QOLの低い人は生きる価値が低いという考え方です。つまり、ある人についてQOLをできるだけ高くすることを目指すということと、違う人のQOLを比べるっていうことは、まったく別の問題。このことが、実は、あまり認識されてないんじゃないかってことです。

 ある論文の中で書いたんですけど、われわれの現代社会の中では、何が「よい死に方」なのか、はなかなか分からない。昔…、昔といってもいろんなパターンがあると思うんですけど、たとえばあの世の存在みたいなものが、本当に信じられてた時代だったら、「こういう死に方がいい死に方だよ」っていうのが、確かにあったかもしれない。あるいは、何か死というものが一種の儀式というか――われわれは死んでから葬式とかしますが――、人が死にゆくのをみんなで見守るような儀式(韓国などにはそういうものが残ってますね)であったような時代であれば、ある種、「よい死に方ってのは、こういうもんだ」というモデルがあったかもしれない。ところが、現代のわれわれっていうのは、そういう「よい死に方」のモデルというものがなかなか見出せない。それに対して、いわゆる「悪い死に方」のモデルはいくらでも見出すことができる。「こういう死に方はしたくない。」という悪い例。 その反転として、安楽死や尊厳死を求める。これが今のわれわれにとっての「死のかたち」の本質なんだろうと思うのです。

 そこで、何かこう、「よい死」に向けて、われわれを誘導していくようないろんな言葉があります。さっきのQOLなんかと同じように、それ自体が悪いものだとは、私は思わないのですが、やはりちょっと気持ち悪いんです。たとえば「終活」だとか、「看取り」だとか、「平穏死」だとか、スライドでは抜けましたけど「エンディングノート」とかですね。最近、QOLじゃなくて「QOD(死の質)」なんていうことを言う人もいるし、ACP(アドバンス・ケア・プランニング)もそうだと思うんですけども。そういった「豊かな、納得できる最期を迎えるために」みたいな、非常に美しい言葉でもって、何かこう、「(体よく)死なせる」ような方向へどんどん誘導していくような動きというのがあって、一つ一つのものはそんなに悪いものじゃないんだけれど、やっぱりそれを無批判的に肯定するのは、やばいなあという思いを、私は強くもっています。

 最近、実は日本では、この尊厳死、つまり「延命治療の手控えや中止」だけではなくて、たとえば橋田壽賀子さんという脚本家が「私は安楽死で死にたいです」みたいなことを『文藝春秋』で言って本を出したりしたのがきっかけになって、いわゆる積極的安楽死とかPASなんかの合法化を日本でも検討すべきだということを主張する人たちが出てきています。生命倫理学者の中にもそういう方がいます。最近出た本で、お読みになった方もいらっしゃると思いますが、宮下洋一さんというバルセロナ在住のジャーナリストが書いた『安楽死を遂げるまで』(小学館)という本があります。この本の中には私のインタビューも出てきますけど、実は私は、この本の全体の原稿を事前に読んで学問的な面からチェックしたということで、少し本作りにも関わらせていただきました。今年めでたく講談社のノンフィクション賞を受賞したのですが、まあこれはバランスのとれた本だと思います。安楽死について、欧米の状況も紹介しながら、反対派の人の状況も紹介して、日本の議論というのがいかにそれらとズレてるかっていうこともきちんと書いてあるので、ぜひ読んでいただきたいなと思います。

 時間がおしてしまっているのにすみませんが、最後に申し上げておきたいことがあります。「死にたい」って言ってる人を死なせることの是否について語る前に、やっぱり二つのことが重要だろうな、ということです。私たちはそもそも「死にたい」と言ってる人が、死にたくなくなるような、もういっぺん生きてみたくなるような手立てを、ほんとに十分に尽くしているんだろうか、ということが一つ。それから、それぞれの人の「死に方」を尊重する前に、われわれはその個人が、自分の「生き方」を追求することを尊重できるような社会を作ってきたんだろうか、ということが一つ。私は、こういうところから見て、今の日本で安楽死や尊厳死など論外だと思っています。日本のように過労死で人が死んでいくような社会で、安楽死・尊厳死なんてとんでもない、というのが、最後の私の結論です。どうもありがとうございました。

 

(拍手)

 

川口 ありがとうございました。

 

 

川口 それでは次に竹田主子さんに、ご講演をいただきたいと思います。竹田さんはALSを発症され、現在は人工呼吸器をつけて、都内で一人暮らしをされておられます。発症前は臨床の医師として、病院で働いておられました。ではご講演よろしくお願いいたします。

 準備いいですか? じゃちょっと準備、はい。私の感想なんですけども、今の安藤先生のお話のお話をお聞きして、現在の自分の活動について少し。

 私はALSの母を11年間在宅で介護をしていた、介護の方(ほう)の当事者で、現在はその支援者っていうことで、相談に乗ってます。

で、昨日のことですが、ずっと人工呼吸器を「つけたくない」とおっしゃっていた患者さんが、「今まで呼吸器つけなくないって言ってたんだけど、もったいないから、やっぱりもうちょっと生きてみようと思う」と。「呼吸器をつける決心がつきました。」っていう電話をご家族からいただきました。うちのスタッフ、さくら会、それからケアサポートモモのスタッフ、大変安堵しまして、その中で一言、大変うれしいお言葉をいただいたのは、「私がこうやって暮らしてることに家族だけじゃなくて、色んなサポートが受けられる」と。ヘルパーさんが来てくれるようになった。それから、夜も深夜もヘルパーさんが来てくれるようになった。それでずっと主人はイライラしてたんだけど、最近そのイライラが収まってきて、また優しくなってくれた。これなら、まあ彼女も「延命」って言ってましたけども、「呼吸器をつけて長生きしても大丈夫じゃないかな」、っていうふうに思うことができるようになったって。そうおっしゃられたんです。

まあその意思決定っていうか、選択って「自己決定」っていうふうにいわれますけれども、そればかりじゃないですね。昨日ほんとに確信を深めましましたが、この病気は本人の力だけでは決められない。無理です。これは私が言うまでもなく、障害者が一番よく知ってると思うんですが。やはり介護の問題が自己決定の前提にある、それから生活費のこと、それから自分が愛する家族の幸せってこと。これらをトータルに考えて、「自分がこれから生き続けても大丈夫なのか」っていうことを、決めていかれる。自己決定ではない。障害者が難しい病気になった時、治療を受けられるかどうかは社会の決定ですね。だから、この先、ACPをやっていくなら、自分だけ幸せでも、隣人が不幸せな社会は嫌だと言う気持ちって、とても大切になってくんだろうなというふうに思いました。

準備はできましたか? じゃバトンタッチしたいと思います。竹田主子さんです。よろしくお願いします。

竹田 こんにちは。ご紹介いただいた竹田主子と申します。今日は「障害者のACP ALS患者として 医師としての立場から〜」というお話をさせていただきます。私は声が出ないので、ヘルパーの東郷さんに私が作った原稿を読んでもらいます。よろしくお願いいたします。

 さてACPについてご説明する前に、自己紹介を兼ねてALSという病気について簡単に説明します。人間の体には運動神経、感覚神経、自律神経の3つの神経が通っていますが、ALSはこの中で運動神経だけが壊れていき、徐々に筋肉が動かなくなる病気です。話したり、食べたりできなくなります。意識や知能は保たれていて、聴覚、視覚も正常です。原因がわかっておらず、治療法もありません。3年から5年で呼吸のための筋肉が動かなくなり、呼吸器をつけないと生きていけません。

 ALS患者は診断を受けた時から、いずれ呼吸器をつけるかどうか、呼吸器をつける直前まで悩み、選択をしなければなりません。こんな体で呼吸器をつけてまで生きる意味はあるのだろうかと思いますし、家族にこれ以上迷惑をかけたくないとも思います。何度も死ぬことを考えます。日本ではALS3割の人が呼吸器をつけて、7割がつけません。みんなそれぞれ理由があると思いますが、介護の問題が大きく関わっていることは間違いありません。

 私は3ヶ月前に呼吸器をつける選択をしました。私は介護保険と重度訪問という制度を併せて使い、24時間ヘルパーさんの介護を受けているおかげで、生き甲斐である子育てや仕事に集中することができました。やることが多すぎるという状況で、ありがたいことに悩んでいる場合ではありませんでした。

ここまで来るのに順調だったわけでは決してありません。これはALSと診断されて間もなくの頃の私の誕生日の写真です。みんな精神的にも肉体的にもどん底で、途方に暮れていました。私は間もなく寝たきりになり、あっという間に手が動かなくなってしまい、食事から身の回りのことから、介助が必要になり、喋れなくなりました。子どもたちは頼りになる母親を失い、笑顔が消えました。私の夫も医師ですが、忙しい仕事の他に、子育てや家事、私の介護、それに慣れない福祉関係の対応に追われて、感情のコントロールができなくなり、私は、自分がいなくなった方がみんなが幸せになるのではないかと毎日思っていました。

 現在ではこんな感じで過ごしています。目の前にあるのは視線で入力するパソコンで、普通のパソコンと全く同じことができます。メールやLINEをしたり、仕事しています。ベッドサイドには医療機器があります。

 今の私の仕事は、医療コンサルティングと、学校の講義が半々です。少し宣伝させていただきますと、医療訴訟の際の相談を受ける東京メディカルラボという会社を今年立ち上げました。そのほかにも医療系、福祉系の学生さんを積極的に受け入れて、呼吸器や胃瘻などの医療的ケアや、喋れない人とのコミュニケーション方法を教えています。学校での講義も行っています。

 福祉とファッションのプロジェクトでは寝たきりの人の気持ちをファッションで上げようと活動している服飾系の人と一緒に活動し、私はモデルとなり、SNS上で公開しています。自分は迷惑な存在だから消えてしまいたいと毎日思っていた数年前には、どの仕事も想像すらできないことばかりです。

 さて、ここからは本題のACPのお話をします。今、政府と厚労省が進めようとしているACPは介護保障の問題と大変密接に関係しています。まず始めにACPについての一般的なご説明をしてから、重度障害者にとって、ACPをどう捉え理解すべきなのか、ACPとの関連の強い緩和ケアについてなども導入しながらお話ししたいと思います。そして重度障害者の特殊性から起こるACPの問題点を整理し、解決策を考えたいと思います。最後にそれらを踏まえて、議員の先生方にお願いさせていただきたいことがございます。

 まず最初の、アドバンス・ケア・プランニングについてお話しします。この言葉はつい最近出てきたので聞き慣れない方も多いと思います。公式には、今年の3月に厚生労働省がACPのガイドラインを発表し、都道府県知事に通達を出したばかりです。アドバンス・ケア・プランニング、略してACPを直訳しますと、「前もって、医療ケアについて、計画立てておくこと」という意味です。今、巷では人生の締めくくりの「終活」という言葉が流行していますが、葬式やお墓をどうするか、遺産をどうするか、こういう問題と同様に、医療についても元気なうちに亡くなり方を決めておこうという考え方です。でも葬式やお墓と違って、医療については、大半の人が詳しくないので、医師や看護師、介護職の人と一緒に話し合いを進めていきます。「前もって」と言うのは、「認知症や、病気の末期で意識が朦朧とし、自分の意志が伝えられなくなる前に」という意味です。

厚労省のガイドラインをもう少し詳しくまとめますと、自分で判断ができなくなる時に備えて、元気なうちに、人生の最終段階の医療やケア、どこでどう生きたいかといった価値観も含めて、本人が、家族や医療・ケアチームと一緒に、話し合いを繰り返すことです。話し合いを繰り返す理由は、気が変わるかも知れないからです。

 ACPの内容には、話し合いの度に文書に残すことと、意志が伝えられなくなった時に備えて終末期に本人の代わりに医療側に意向を伝える「医療代理人」を決めることも、必要事項に入っています。医療代理人は、家族の他に親しい友人を指名してもいいとされています。

 最近改定された診療報酬や介護報酬でも、看取りに対する報酬を手厚くして、このガイドラインに沿った対応を現場に求めているので、今後アドバンス・ケア・プラニングが広がっていくだろうと思います。日本医師会も終末期医療の手引きを出して、かかりつけ医に周知するように乗り出しています。

 では、私たち難病患者や障害者は、ACPをどう捉えればよいのでしょうか。ガイドラインによりますと、そもそもACPを作った目的は、超高齢化、多死社会や単身世帯の増加が背景にあります。患者さんの意志が分からないままだと、現場の医師は終末期の人でも望んでいない延命治療を続ける可能性がありますし、そのような患者が増えると医療費の問題も出てきます。そこであらかじめ文書を残してもらい、積極的な治療でなく、苦痛を和らげる薬やカウンセリングに重点を置く患者を振り分ける事が検討されるようになりました。

 ACPの想定対象は加齢に伴い、また持病がある事によって心身の活力が衰えた高齢者、ガン患者、慢性心不全や、桂歌丸さんがわずらっていた慢性呼吸不全などの病気、そして認知症です。いずれも人生の終末期を意識する状態です。しかし、全身麻痺の障害や難病になっただけの状態を単純に終末期ととらえてよいのでしょうか? 決して終末期ではありません。そうでありながら、特にALS患者は医師から診断を受ける際に呼吸器や胃瘻のことを告げられ、終末期の話になりがちなのです。

 私も某有名病院の難病指定医から病気の宣告を受けた時は、「家族の介護が大変だから。」というだけの理由で、呼吸器を当然つけないという前提で話が進んで行きました。その医師は介護福祉制度を全く知りませんでした。医学部では習わないのです。厚労省のACPのガイドラインでは同時にできるだけ早く緩和ケアを勧めてもいます。緩和ケアについてはあとで説明しますが、もしその病院に緩和ケア外来があったら、さっさとそちらに回されて死ぬ準備をしていたでしょうし、もし私がALS協会の人に出会わず、制度の事を聞かなければ、もしそのあと信頼できる医師に出会わなければ、違う人生を送っていたと思います。

 では、緩和ケアについてご説明します。もともと、末期ガンの患者さんの苦痛を取ることを目的とした医療ケアを緩和ケアと言います。手術ができないほど全身に転移している、抗がん剤や放射線が効かない、治療の副作用が辛くて、そういう積極的な治療を望まない患者さんが、苦痛を和らげる医療用のモルヒネなどを使いながら、最期の時を迎える病院がホスピスであり、緩和ケアとされてきました。しかしここ4年くらいで、ガンだけではなく、進行性の病気にも適応が拡大されるようになってきました。医師の中では、まだ従来の考え方と混同している人が多い現状です。

 そのため、どのような患者が緩和ケアの対象になるのか、医師も指標が欲しいわけです。イギリスのエディンバラ大研究チームが開発した、スピクトと呼ばれるツールで欧米で広まっており、ACPの普及推進に伴い、日本版スピクトJPができつつあります。それによると、「活動レベルが低下、もしくは悪化傾向(50%以上をベッドもしくは椅子で過ごす)状態にあり回復が望めない。」「身体的・精神的問題で、ほぼ全ての日常生活に他者からの支援が必要。」「この6ヶ月以内に2回以上、予定外入院の病歴がある。 36ヶ月以内に510%の体重減少があるか、BMI が低い。」「基礎疾患に対する治療が行われているにもかかわらず、持続的に問題となる辛(つら)い症状がある。」「患者から支持療法、緩和ケア、もしくは治療中止の希望がある。」という条件の方が対象になります。

 さらに、心臓病、肝臓病、肺の病気など、臓器別に細かく緩和ケアの対象が決まっていて、私たちALSが関係している神経疾患の場合は、「適切な治療にも関わらず進行する身体機能や認知機能の悪化がある。」「発語の問題に伴い、コミュニケーションが困難になってきている。あるいは、進行性の嚥下障害がある。」「繰り返す誤嚥性肺炎、あるいは呼吸困難がある。」という条件で、ALS患者の100%全員が、いずれ多かれ少なかれ当てはまります。

 ここで誤解してほしくない事は、緩和ケアは苦痛を和らげるありとあらゆる医療ケアですので、それ自体が悪いわけではありません。人工呼吸器をつけながらでも受けることができます。ただ、勝手にも医師から末期と決めつけられて、正当な治療を受けられずに、緩和ケアのレールだけに乗せられて、死ぬ準備をさせられるという危険性が十分あるわけです。

 ここで全身麻痺の難病障害者の特殊性についてお話しします。難病障害者にとって呼吸器や胃瘻などのいわゆる「延命治療」は、機能を失った運動神経を補う道具でしかありません。足を失った人の義足、心臓の働きが悪くなった人のペースメーカーと同じなのですが、終末期医療の対象者と混同されがちです。ご覧の通り、私は呼吸器をつけていますが胃瘻も作っています。左の写真が胃瘻です。ミキサーにかければ家族と同じ食事を食べられます。右の写真はCVポートと言って、皮膚の下と、首の太い静脈をつなぐ装置を埋め込んでいます。三角に盛り上がっているところのどこを刺しても点滴が入るので、失敗がないですし、腕などの細い血管から入れてはいけない薬や、栄養を入れることができます。これがいわゆる中心静脈栄養です。

 次に「中途障害」という概念についてもご説明いたします。人生の途中で、突然、病気や事故で身体障害者になることを「中途障害」といいます。ALSは、病気になったと同時に障害者にもなります。中途障害者は、始めは大変ショックを受けます。そして自分が無力で価値のないものに思えます。人生に絶望し死にたくなります。ただそのうち、体は不自由になったけれど、自分全体の価値が下がった訳ではないと悟るようになります。その段階まできたら、障害者である自分を受け入れられるようになり、生きがいを見つけるようになります。

 私は自分を受容するまでに4年かかりましたが、今では何にも気にならなくなりました。ただし、何度も申し上げますが、24時間ヘルパーさんの介護があって、家族に介護負担がかかってないことが前提です。私たちALS患者は介護保険の介護と重度訪問介護が使えます。

 障害受容について、数々の論文がありますが、これは第二次世界大戦の戦傷者を研究したものです。私と同じように、中途障害になった人々が価値転換をして自分を受け入れる心理が書いてあります。特に全身性の重度障害者は、はたから見ると悲惨で可哀想と見えると思いますが、もしかしたら健康な方よりメンタルは元気で、社会のために何かしたいと強く思っているかも知れません。時間の関係でここでは読みませんが、健康な方が読んでもなるほどと思うことがあると思うので、是非あとで読んでみて下さい。

 もう一点、ACPを導入するタイミングについても重要視する必要があるのではないでしょうか。タイミングが早すぎた場合、特に私たち重度障害者にとって、ACPは利益より害が多いと考えます。

 まず初期の頃は病気や障害のショックで精神的に追い詰められています。そのような時期に、延命治療を目の前につきつけて、どう思っているか問い詰めてもかえって鬱状態になります。また将来のことを聞かれても、介護の問題、医療処置の問題を自信を持って断言できる人は、そうそういません。また気管を切り開く手術をするだの、胃に穴を開けるだの言われ、「そんなことしてまで生きたくない」と宣言しても、食べられなくなってお腹が空いたら胃瘻を作りますし、誤嚥性肺炎を繰り返したり、痰詰まりで鼻から管をズボズボ入れられて、それでも取り切れなくて苦しい思いをしたら、気管切開も苦ではありません。つまり経験してみないと分からないことも沢山あります。

 以上のことを踏まえて、改めて重度障害者の立場でACPの問題点を整理すると、1つには、難病障害者は発症率がかなり低いために、難病に理解のない、あるいは実態に詳しくない医師がACPや緩和ケアのガイドラインに正直に従ったために、終末期患者と同様のコースで、本来受けるべきである呼吸器、胃瘻などの治療が受けられなくなる可能性があります。

 2つ目は、病気を発症した初期段階にACPのガイドラインに沿っていわゆる延命治療を望まないと表明し文章化した場合に、人生の終わり方をみんなが考え尽くしてくれて、準備が進んでいるとすれば、それを根底から覆すのが困難になる可能性もあります。喋れない私たちは、コミュニケーション手段があるとはいえ、ただでさえ忙しい医師、看護師、介護職の人たちに囲まれて、医療について言いたいことが全部は言えません。また介護事業所は継続的に利益を上げないと、従業員に給料が支払えないので、終末期として認定された患者は差別される可能性もあります。

 ここまでは重度障害者にとってのACPという観点から問題点をあげてきましたが、一方で、私たち重度障害者がACPを有効活用するにはどのようにすればよいのでしょうか。

 まず、自分の病気、福祉制度、医療機器のことについて知識を得て、少なくともACPの話しあいの場で、医療関係者やヘルパー事業所に対して、丸投げになってはいけません。また自分だけで情報収集をするのは限界がありますので、フェイスブックなどや患者会で繋がりを作りましょう。医師や看護師ともし繋がれるなら、日頃から考えを伝えたり、分からないことを聞きましょう。

 私は在宅医療の医師、看護師、薬剤師とMedical Care Station(メディカル・ケア・ステーション)という完全非公開型 医療介護専用SNSで繋がっていて、ラインのような感覚で、2週ごとの往診の前にちょっとしたコメントを書いています。

 また、早急に終末期の意思表示をしないことも大事です。絶望感でいっぱいでも人生何が好機になるか分かりません。とんでもない医療従事者は早めに変えましょう。 ”Go Ahead and Jump” バン・ヘイレンの『Jump』という曲の一節です。みなさん、前を見てジャンプしましょうね。

 最後に議員の先生方、省庁の方にお願いしたいことがあります。火急の優先課題として、決して重度訪問介護が先細りにならないように、介護保障の充実をお願いします。具体的には、重度訪問介護支給時間の拡大、重度訪問介護の処遇改善加算切り下げの阻止、重度訪問介護事業所、重度ヘルパーの処遇改善です。また、ACPガイドライン/法案の中にも「重度障害者は24時間介護保障が前提条件で、ACPを行わなければならない」と明記してください。

 介護保障のおかげで子育てと仕事という生きがいを持つことができて、ここに立たせていただけてることに感謝しつつ、全国の全身麻痺障害者が、私と同じように介護保障を受けられて生きられるように、ご臨席の国会議員の先生方に改めてお願いをし、私の講演を終わります。ご清聴、ありがとうございました。

 

(拍手

)川口 竹田さん、どうもありがとうございました。何か、お話を聞いていて感無量でした。竹田さんのまだ声が出たころから、存じ上げているので、ほんとに大変なことがたくさんある中で、今日この舞台に立たれて本当によかったなあと思います。

 で、えっとちょっと私からもお話をさせてください。ACP、アドバンス・ケア・プランニングっていう言葉、初めて聞かれた方もたくさんいらっしゃると思うんですけれども、私たちはその前に、AD=アドバンス・ディレクティブという「事前指示書」に対しては、長年反対をしてきました。これは、あらかじめ人工呼吸器とか胃瘻とか、いわゆる「延命治療をしないでほしい」ということを一筆書いておけば、意識がなくなっても、延命治療を受けないで済みますよ、ということです。これまでは、これを法制化しようとしていた。それが尊厳死法案だったわけです。で、これに対して、障害者団体とか人工呼吸器を使う患者会とか、猛烈に反対をしてきまして、これまで2回ばかり法案上程ということはあったんですけど、阻止する活動をしました。

 で、尊厳死を法制化しにくい状況もあるということで、考え出されたのが、いわゆるその「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」ということで、2007年に厚生労働省でガイドラインを作ったんです。

 その前に、射水市民病院の中で呼吸器を取り外しが行われていたことが発覚して、これは刑事事件になったんです。ドクターが独善で治療停止を行っていた実態が公になり、厚労省が大急ぎでこのガイドラインを作ったんです。まあこのガイドラインにも色々問題があって、実際にこのガイドラインだけでは治療中止、停止ができないんじゃないかっていう批判があったんですね。で、さらにずっと厚生労働省の中でこれをもとに練っていって、2015年に「人生の最終段階の決定プロセスに関するガイドライン」に名称変更し、20183月に「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」改訂版が出た。これがもうほぼ完成形だと思うんですけど、発表されて、都道府県の知事宛てに通知された、ということですね。先ほどの竹田さんのご発表だと、そういうことだと思うんですけど。

で今おっしゃられたように、これは合意形成の決定プロセスで「昔のようにドクターが独善的に治療停止しなくてもいいように、みんなで相談していこう」ということです。もちろん家族、患者も入ってますし、まあその、看護師さんだとか、あと病院のドクターだけじゃなくて、かかりつけのドクターだとか、あとそれからソーシャルワーカーとかね、そういう方もみんな入って話し合いの中で、まあ本人の意思が治療に対してどうするかってのを決めて行くってことなんです。

ただですね、これがまあさっきお二方もおっしゃられてましたけど、終末期医療の医療費削減のひとつの道具としての話が最初にあるわけです。つまり、医療を断る方向性が強いものである。これはほんとに注意深くしなきゃいけない部分です。

で、さらに、今、竹田さんがおっしゃられたように、みんなで話し合うムードができてきてしまった中で、本人の気持ちが変わったとしても、途中で大きく方向転換しにくい。例えばALSの場合は最初に「呼吸器つけたくない」というふうに言っていたとします。それを受けて「じゃ、もう呼吸器をつけないで看取っていこう」というふうな空気ができてしまった中で、ある日突然、「やっぱり死ぬのやめた」と。「私は生きたい」ってなっても、これは本当に言いにくいですよね。看取りの体制万全で、長期療養の準備をしていないところに最終段階ぎりぎりになって「生きていくことに決めた」と言われても。

もう何て言うんですか、モーターボートだったらピュッと、こうね、方向転換できますけども、大勢の人が関わって、ACPの場が巨大タンカーレベルになっている。大変たくさんの人が関わって役割分担してる中では、本人が決められない雰囲気ができてしまうってことですよね。これは合意形成にどれだけ患者さんの意思が尊重されているか、それから患者の自己決定を支えるだけの条件が整ってるか、にもかかってます。 

意思決定の際の大変重要な要因に、家族に迷惑をかけないことがありますが、家族介護者の負担の軽減がACPにもり込まれているかっていうのは、これはもう本当に不安です。医学的判断をするのは医師ですが、さっきおっしゃられたように医学部では、普通は介護サービスの勉強なんてしないです。病院の神経内科医どころか、ケアマネさんがまず障害の制度を知らない。介護保険のケアマネさんが重度訪問介護を知らないので、公費では長時間の介護ができないという。家族が介護できないとなると、じゃあ誰が介護をするのかということになります。介護する人がいないんだったら、本人は「生きる手段がない。しょうがないね。」ということになるんですよ。

 要するに、ACPは「今の居住地域の環境で、あなたの生活にあるものの中でできることを決めよう」っていうことでしかない。現状追認です。竹田さんの場合は、東京のど真ん中で生活しておられたし、まあご主人もお医者さん、自分もお医者さんっていうこともあったりして、最初から大変に条件としては良かったし、私たちに繋がったので、介護面でも良い情報提供ができたので、ここまで来られていますけど、例えばそうではなくて、地方の僻地の、看護ステーションもない、もちろん重度訪問とかそういう制度の事業所もない、それから村役場の人が障害の制度を知らない、いわゆる「延命」と世間で呼ばれてしまっている治療にはネガティブな風潮の強い地域で、療養している方(かた)たちの場合は、その範囲で意思決定をしていかなきゃいけないんですよね。これじゃ、生きることを諦める合意形成するしかない。リソースや規範など地域性に伴う格差が生じますが、誰もが見て見ぬふりをするしかない。これが今後ACPの課題として浮上してきそうです。

 安藤先生も私も生命倫理学会の会員で、学会が12月に京都であるんですけど、そこの予稿集が届きましたが、もう発表の中にACP、アドバンス・ケア・プランニングの在り方という報告がたくさん出てきてます。それはどういうことかっていうと、要するに生命倫理をやってる倫理学者、生命倫理学者、あとこう言う意思決定支援をやっていきたい看護師さんなどの出番なんです、これは。病院の倫理委員会をリードしようってこと。

終末期の意思決定支援の方法を勉強した者がリードして、ACPを進めて行く、推進していくってことになったので、これは倫理学者は張り切ります。患者が意見を言えない場合は、家族が患者の意思を推測することになっていますが、代弁者に家族を立てることに多大なる問題があります。そこに、患者の立場で意見を言える人、例えばALSならALSの先輩患者が入(はい)れるか、障害者のピアカウンセラーが入れるか、っていうのは、ガイドラインに書かれてないっていうか、まあありえない。私はその当事者の人権を擁護できる人が、治療決定の場に入っていく必要があるんじゃないか、っていうふうに考えています。

私が一人で張り切ってしゃべってもしょうがないので、これから質疑応答を進めていきたいと思います。

 ではまず、最初に、どうしますか。挙手していただければと思います。みなさん考えてる間にちょっと、あ、大塚さんに指定発言頼んである?() じゃあそういうことで大塚さん、すいません突然に、マイクが行きますけれども。はい、よろしくお願いします。

大塚 え、いきなりですか?

川口 いきなり、そう、いつもの通りです(笑)。

大塚 今日のお二人の講演聞かせていただきまして、「そうだ、そうだ」という。あ、ごめんなさい。あの、私、「バクバクの会〜人工呼吸器とともに生きる〜」の会長をしております、大塚と申します。ほんとうにお二人のお話を聞きながら、うん、まさしくその通りで、以前から尊厳死法案についても反対をしてきた立場です。

 それで私たちの子どもたち、メインは子どもたちなんですけれども、もうかなり年齢もいっておりまして。30年近く会を運営しておりますので、当初3歳ぐらいで始まった家族会のお子さんが、現在33歳になっております。

 先ほど、重度訪問介護であるとかですね、その辺を使いながら、ということなんですが。竹田さんの方で、先ほども、24時間介護保障と言うことおっしゃっておられました。当会の平本歩ですけれども、現在尼崎で重度訪問介護を利用しながら24時間365日付けて自立生活をしております。人工呼吸器使用者ということなもんですから、ヘルパーが二人が付いております。ですから、1,488時間、月に出ておりますので、このような形で人工呼吸器をつけていても自立生活ができるということを実現しております。ほんとに竹田さんもおっしゃっていた通りなんですね。このような形でみんな生きていけるんではないかと。

 今回のお話の中で、昨晩、たまたま夜中なんですが、NHKスペシャルの、100年の何とか(シリーズ人生100年時代を生きる 第2回 命の終わりと向きあうとき)という、ここのところ2度ほどやっていた番組の中で、家族の同意を得て、意識がない方の呼吸器を外す、というところを、たまたま見たんですけれども。やはり呼吸器を外した、自発呼吸がほんの少ししかないということだったんですが、呼吸器挿管を抜いたとたんに、必死で息をしてるんですね。やっぱりそこは「生きよう」というところが見られたんじゃないかな、とは思います。

これを、家族が承認をして、医者と取り決めて、医者の方(ほう)も倫理委員会を通して決定されたことということなんですが。そこには、非常に生臭いというか、(いろいろ)あるんじゃないかと思います。要するに、家族としても、こういう意識のない、自分の親なんですけれども、そういう人を、今後どこまで看ていかなくてはいけないのかなという不安感。それから経済面。さまざまなことを考えたら、「もうこの辺でいいことにしてしまいたいな。」という意識がある。要するに生きて、この人が生きていることが「自分たちの生活にとって邪魔者」というような感覚になってしまうんではないかと思います。

私の子どもも、生まれた時に重度障害で、出生直後から人工呼吸器をつけておりました。やはり自分も、この子どもが生まれた時に、「俺の人生これからどうなるのかな、この子どもを一生みていくことになると、自分の人生っていうのは思い描いていたことと違う方向に行ってしまうんだな」という、非常にわがままなというか、あるいは自分本位の考え方が、当初ほんとにありました。でも、自分の子どもを看ながら、一所懸命生きてる子どもをみながら、そういう人生を、21年そこそこの人生でしたけども、それによって逆に私の人生がつくられてきた、ということもありまして、今では息子に非常に感謝しております。そして、このような場でこのような発言をさせていただいているということも、やはり息子のお陰かなと。そして、俗に言う、弱い人間っていうと変なんですけれども、弱者の方(ほう)の立場の考え方ということにも自分が、できたということ自体もまあ良かったかなと。そして、ここに集まっているみなさんと命について様々な考え方をしてきたことも、非常に自分にとっては良かったと思っております。

 ということで、決してその、命というもの、無駄な命は一つもないんだということで、このような、このACPという考え方がまた出てきておりますけれども、こういうことについても反対というか、やはり自分で、命というもの、もっと悩んで、みんなで悩んで、考えて最善のことをやっていけばいいんじゃないかと。

 私も3年ほど前に義理の父を看取りましたけども、92歳でした。この父親が、最終的にガンでしたけれども、最期の時には、家で看取るということにしたんですが、胃瘻をした方がいいんではないか? 食べられなくなった時に胃瘻をした方がいいんではないか? (胃瘻は)しなかった、しないまま衰弱していく形で看取ったわけですが。本人もそんなに苦しいという感じは一切見せなかったのもありまして、良かったのかなとは思ってはおりますけれども、やはりもっとあの時に胃瘻であるとか、様々な治療をした方がよかったんじゃないかということも、悩んで、悩みました。そしていまだに、その辺のところはふっきれておりません。やはり命というものに関してはみなさん、もっと悩んで、こういう何とかプランであるとかですね、そういうもので簡単に割り切って、チェックシートで終わるような命の終わらせ方はしたくないと思っております。長くなりまして、申し訳ございません。

 

川口 ありがとうございます。次はCILふちゅうの岡本直樹さんです。

 

岡本 DPI日本会議で特別常任委員をしています、CILふちゅう代表の岡本と申します。私は、尊厳生部会というふうなところで活動をしています。私たちDPI日本会議では、当たり前かなと思うんですが、尊厳死法制化に反対しています。その理由は、これまでも色んな方から報告があったので、共通している部分が多く言うまでもないんですが、私からは尊厳を持って生き続けた、今年の715日に奇しくも亡くなった当会代表の鈴木一成のお話をさせていただきたいなというふうに思います。

彼は、2016829日に入浴後に意識を失って、心肺停止となりまして、まあ一命をとりとめたものの、意識の回復は一応なかったというふうなことにされています。彼は、倒れる前から尊厳死法制化の反対の意は表明していたんですが、延命への意思表示というものはなかったというのが問題でした。

これは、私たちのエゴなのかもしれないですが、彼がつくってきたCILふちゅうの方針、「どんな障害を持っていても主体的に生きられる社会の実現」、これを考えていくと、私たちにとっては、彼が生きていくというふうなことは必然の選択でした。その後の111ヶ月に及ぶ彼の闘病生活に私たちは向き合ってきました。この間、支える中で、幾度も尊厳死法制化のみに限らず、やはり死へと誘導していくような日本の医療の仕組みというふうなことを、本当に感じました。80代のお母さまと、耐えがたい苦しい決断を迫られることが度々ありました。恐らく支援者がいなければ、お母さんへの心労というふうなところは、ほんとに耐えられなかったのかな、というふうなことをすごく感じました。

 こういった実践の中で、当初は地域に移行していくというふうなことで、毎週のように入院先に訪問して寄り添ってきたんですが、残念ながら再起が難しかったというふうな状況です。支え続けてきた中で、特に感じたことっていうのが、これは私個人の感想なんですが、やはり鈴木の死が、ちょっと不謹慎かもしれないんですが、思うほど悲しくないなというふうなことを感じています。この経験というのは、やはり尊厳をもって支え続けてきた証なのかなというふうなことを今、感じています。死を迫る法律というよりも、尊厳や希望を持って生きられる法律というようなものを是非、制定していただきたいなと、そういうふうに私は望んでいます。ありがとうございました。

川口氏 ありがとうございました。

 

(拍手)

 

川口 日本ALS協会理事で、人工呼吸器を使って療養中の岡部宏生さんにも発言をお願いしてます。

 

岡部 私たちにとってACPの危険なところについて、少しだけ触れます。家族だけでなくて、支援者を交えることも可能ですが、コミュニケーションが極めて難しい患者(MCSTLSなど)の呼吸器を外すタイミングを事前に信頼している人に頼んでおくこと、その決定はもしかしたら本当にその患者の意思に沿う場合もあるかもしれません。ですが、まだ死にたくないと思っていても死なされることになる場合もあり得ます。 本人の意思確認に、読み取りのスキルが大きく影響してしまうことは大変恐ろしいことです。支援者や家族が諦めたら、本人の意思と関係なく決定されるということです。

それを考えた時に、今、韓国で起こっていることを例として見てください。安楽死ができるようになってから21,000人が亡くなっていますが、14,000人が家族による決定で、本人は7,000人です。こういうことが起こるということです。

しかもこのガイドラインは、患者にとって何か拠りどころを求めたい人や求めたい時期には、思わずすがりつきたくなってしまいます。そんなことを選んでしまっても、コミュニケーションが難しければ、変えようがないのです。

私はコミュニケーションが大変難しくなった患者との交流を通じて、実感していることがあります。大変活発に活動していた患者が、コミュニケーションが難しくなって、活動どころか生活にも不自由して、「殺してくれ」とか、「死にたい」とか言っていた患者が一人のヘルパーと出会って、長い時間かかりますけど、コミュニケーションが取れるようになって、今は私と外出したりイベントの企画をしたりしています。

みなさんはこのことをどう思いますか? 以上です。

川口 岡部さん、ありがとうございました。ALS特有のTLSと言う、コミュニケーションがだんだん難しくなって、最後には全く意思表示ができなくなる人が少数いると言う問題で、それに対する、まあ何ていうんですか、事前の治療停止の意思決定っていうことも議論をする意味があると思いますけど、ほんと、この話になると大変にややこしく難しくなって、長い議論の時間必要になるので、また別の機会に議論したいと思います。

 で、そしたらそろそろ大濱さん、中西さんの方からまとめ、ということでお話、コメントってことでいいですか。

 

中西 安藤先生と竹田さんが話されたことで、内容的にはつくされていると思います。この終末期問題は法律にすべき問題ではなく、われわれ個人的な意思決定の問題なのです。これをだから国家が法律で縛るのは、根本的に間違えたことだと思います。

そうやって縛らないにしても、ALSの人は今でも家族や医者の意思決定で殺されています。今後、必要なことは介助です。それを満たしたうえで、本人の意思決定をどうするか、どういう生活をしたいかというのは本人次第です。安藤先生の、竹田先生のいう介助があれば尊厳死を考える人はいなくなるというのが本質をついている考えだと思います。

これを満たしていきながら、法律的には介護保障を充実させるにはどうするか。高齢65歳以上でALSになったらどうするのか。高齢の介助というのも24時間にしてほしい。それを全員で取り組んでいく。

高齢の人にも重度訪問介護が使えるようになれば、病気の内容に関わらず、誰でも使えるようにしなければならないと考えます。意思決定に関しては介助者や友人、その辺りがきちんと位置付けられて、鈴木くんの時のように、意思決定が家族や親せきなどの介助負担回避のために殺されるようなことが今後ないように、われわれの力で制度改革を進める必要があります。それと並行してACPガイドラインの中に介助者や友人が自己決定支援に入れるように文書変更をしなければなりません。

 

大濱 大濱です。尊厳死の法制化の話が出てきて今思うのは、やはり昭和20年代の優生保護法です。この法律は太田典礼や加藤シヅエが中心になって作られましたが、今になって強制不妊手術の問題が提起されています。

もし尊厳死法ができたら、優生保護法と同じように、何年か後には間違った法律と歴史が指摘する可能性が高いと思っています。ここで止めないとかなり危険だと思っています。当時その勢いに乗って、優生保護法は必要不可欠な法律だということで、あのころ制定されたのだと思います。特に加藤シヅエは婦人解放運動で有名な女性ですが、その人が率先してこの法律を作ったというのは、かなりショッキングです。その時代の先頭に立つ人たちが中心となって法律を作ったという点では、優生保護法もそうです。

あと、ハンセン病(らい病)も同様です。京都大学の小笠原登先生が「ハンセン病は感染力が弱い」と主張したものの、国の御用学者が「ハンセン病は非常に危険な感染症である」として、隔離政策を進めてしまいました。昭和20年代にプロミンという新薬が開発されても、日本では隔離政策が続いたという経緯もあります。医学というのは、その進歩と伴って、逆にちょっと変な、危険な方向性が出てくることがあるので、本当に気をつけて見ていなくてはいけないなと思っています。

 先ほど武見先生がお越しくださいましたが、先生に「必ず来てください」と申し上げたのは、そういう問題意識がありました。武見先生は医師会に対して影響力があります。やはり私たちの運動は、医師会や医療関係団体も巻きこんで進めていかないと、間違った方向に走られる可能性があります。実は、尊厳死を法制化しようという人たちにはドクターが多いです。ただ、そうではないということをドクターにも分かっていただいて、過去と同じような過ちをここで繰り返すなということを、私たちは声を大きくして言いたいと思っています。先ほど川口さんからACPの話が出ましたけど、これは本当にそのとおりだろうと思っていますが

 

川口 今日は本当に大変有意義なお話が聞けたと思います。安藤先生、竹田先生ありがとうございました。

 それでは、宣言文を読ませていただきます。

 

「私たちは、36524時間の介護保障なくして、安心して終末期を迎えることができない。

介護保障なき治療の不開始と停止を、私たちは一切認めることができない。

尊厳死安楽死の法制化も一切認めない。」

 

以上でございます。

 

 これを今回の集会の宣言文として、多くの方に広めていきたいと思います。みなさんにお配りしている資料の最後のページに書いてありますので、ぜひお近くの方にこれをおしらせください。

 

 では、ちょうど時間になりましたので、これで閉会とさせていただきます。

またこの続きの勉強会を企画していきたいと思いますので、よろしくお願いします。

 
HOMETOP戻る